「迷う羊をなお捜し出される主――叫びは御前に届き、最後まで捨てられない」
ここで詩編119編は、
高く結論するだけで終わらない。
むしろ最後に置かれるのは、
叫びであり、
願いであり、
そして驚くべきことに、
自分が迷う羊のようであるという告白である。
御言葉を愛し、
戒めを守り、
真理に立ち、
敵と戦い続けてきた者が、
最後になお自らを完全者としてではなく、
主に捜し出していただくべき者として差し出す。
ここに霊的戦いの最後の要点がある。
誇りは最後にこう囁く。
「ここまで来たのだから、自分で立て」
「もう捜される側ではない」
「弱さを見せるな」
だが契約の道を最後まで歩く者は、
自分が最後まで
主の憐れみによって保たれる者であると知っている。
ダニエル書10章を解説|ペルシアの天使長とギリシアの天使長はサタンなのか?ミカエルとの関係を読む
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特別編エゼキエル書第34章
虐げられた羊を、主ご自身が探し出される エゼキエル書34章は、冷たい章ではありません。これは、傷つけられた者の…
119:169(ヨブ)
わたしの叫びが、
主よ、御前に近づきますように。
あなたの御言葉にしたがって、
わたしに悟りを与えてください。
叫びは空へ消えるのでなく、御前へ運ばれるべきです。
人は苦しみの中で叫ぶ。
だが叫びがどこへ向かうかで、
魂の行く先も変わる。
怒りへ向かう叫び。
人への恨みへ向かう叫び。
自分を憐れむ闇へ向かう叫び。
それらは声を発しても、
魂を救わない。
だからわたしは願う。
わたしの叫びが御前に近づきますように、と。
ここで敵は、
叫びを独り言に変えようとする。
祈りを天井で止め、
「届かない」と思わせる。
だが叫びは、
主に向かう時、はじめて意味を持つ。
しかもわたしは、
ただ苦しみの緩和だけを求めない。
悟りを求める。
なぜなら戦いの中で人を真に守るのは、
一時の安堵より、
御言葉に従った理解だからである。
わたしはウツの地で叫んだ。
嵐の前にも、
灰の中でも、
答えの見えぬ夜にも。
そして知った。
主の前に届く叫びは、
決して無駄に消えない。
119:170(アブラハム)
わたしの願いが、
あなたの御前に届きますように。
あなたの仰せのとおりに、
わたしを救い出してください。
願いは、主の言葉に結ばれてこそ真っ直ぐになります。
人の願いは揺れる。
昨日は欲したものを、
今日は恐れ、
明日は退けることもある。
だが主の仰せは揺れない。
だから願いを主に届けるとは、
自分の思いを押し通すことではない。
主の言葉に自分の願いを整えていただくことである。
ここで先送りが来る。
「願っても仕方がない」
「届くほどの祈りではない」
「もっと状況が整ってから求めよ」
だが契約の者は知っている。
願いは整ってから届くのではない。
主の前に差し出され、
そこで整えられる。
わたしもまた願った。
子のこと、
土地のこと、
祝福のこと。
だが最後にわたしを支えたのは、
願いの強さではなく、
仰せの確かさであった。
だから願う。
わたしを救い出してください。
人の都合によってではなく、
あなたの仰せのとおりに。
119:171(ヨブ)
あなたが、
あなたのおきてをわたしに教えてくださるので、
わたしのくちびるは賛美をあふれさせます。
真の賛美は、教えられるところから湧き上がります。
賛美は感情の高まりだけではない。
順調だから出る歌でもない。
教えられた者の口から出るものである。
ここで敵は、
賛美を気分の産物へすり替える。
「苦しい時に賛美など偽善だ」
「理解できぬなら黙っていろ」
そうして口を閉ざさせる。
だが、主に教えられた者は知る。
賛美とは、
すべてを把握した者の歌ではない。
主が正しいと知った者の応答である。
わたしは多くを知らなかった。
なぜあの災いが許されたのか、
なぜ沈黙が長かったのか、
なぜ人の言葉があれほど冷たかったのか。
だが主が語られた時、
わたしの口は閉じたままではいられなかった。
教えられる者は、
砕かれながらも歌う。
理解のすべてを得たからでなく、
主がなお王であると知ったからである。
119:172(アブラハム)
わたしの舌は、
あなたの仰せを歌います。
あなたのすべての戒めは義だからです。
舌は恐れを語るためでなく、義を歌うために与えられています。
舌は人を救いもするが、
滅ぼしもする。
祝福を告げることもできれば、
偽りを広げることもできる。
ここで敵は舌を奪う。
不満を増幅させ、
比較を蒔き、
噂と嘲りを蜜のように感じさせる。
だが契約の者の舌は、
主の仰せを歌う。
なぜなら主の戒めは義だからである。
義でないものを歌う時、
舌はすぐ腐る。
だが義を歌う時、
舌は魂を主の方へ向け直す。
わたしもまた、
祭壇のかたわらで御名を呼んだ。
約束が完成していない時にも、
旅の途中にも、
なお舌を契約へ結びつけた。
歌うとは、
現実逃避ではない。
現実の上に、
より高い真実を置くことである。
119:173(ヨブ)
あなたの御手が、
わたしを助ける備えをしてください。
わたしがあなたのさとしを選んだからです。
選びは、助けを不要にするのでなく、むしろ助けを必要とさせます。
御言葉を選ぶ者は、
戦いを避けられるわけではない。
むしろ戦いは明確になる。
偽りを退け、
主の道を選ぶなら、
敵はそこを狙って来る。
ここで誇りが入り込む。
「選んだのは自分なのだから、
自分で立て」
「助けを求めるのは弱い証拠だ」
だが違う。
主のさとしを選ぶ者こそ、
主の御手を必要とする。
なぜなら真理の道は、
自力では最後まで守りきれないからだ。
わたしは義を捨てなかった。
だが義を保てたのは、
わたしの強さのゆえではない。
主の御手が隠れて支えておられたからだ。
だから願う。
あなたの御手が備えてください。
道は選んだ。
だが歩みきる力は、
なお主の手から来る。
119:174(アブラハム)
主よ、わたしはあなたの救いを慕っています。
あなたの律法はわたしの喜びです。
慕うことと喜ぶこと、この二つが契約の歩みを温めます。
救いを慕う。
それはまだ手にしていないものを、
なお望むことである。
待ちの中でも、
失望の中でも、
約束の方へ心を向け続けることである。
ここで疲れがささやく。
「もう慕うな」
「期待するほど傷つく」
「喜びを下げておけ」
だが契約の人は、
心を冷やして生き延びる道を取らない。
主の救いを慕い、
主の律法を喜ぶ。
わたしもまた、
約束の子を長く待った。
待つ年月は短くなかった。
だが待ちの中で心を凍らせなかったのは、
主の言葉が喜びだったからである。
喜びを失うと、
人は規則だけを抱えた者になる。
だが律法が喜びである時、
従順は重荷ではなく、
契約への愛のかたちとなる。
119:175(ヨブ)
わたしのたましいを生かしてください。
そうすれば、わたしはあなたをほめたたえます。
あなたのさばきが、
わたしを助けてくださいますように。
生かされることの目的は、なお主をたたえることにあります。
ただ息が続くことだけが命ではない。
魂が主を忘れていくなら、
それは深い意味で衰えである。
だからわたしは願う。
わたしのたましいを生かしてください、と。
肉体だけではない。
中心を、
信仰を、
賛美する力を、
なお生かしてください、と。
ここで敵は最後の麻痺を差し出す。
「生きていればそれでよい」
「ほめたたえる理由がなくても進め」
「裁きなど考えず、とにかくやり過ごせ」
だが契約の命は違う。
生かされるなら、
主をほめたたえるために生かされる。
そして主のさばきが、
わたしを助ける。
わたしはこのことを知った。
主の裁きは、
わたしを押し潰すためだけでなく、
わたしを真実へ戻すためにも働く。
ゆえに、
そのさばきは恐るべきであり、
同時に助けでもある。
119:176(アブラハム)
わたしは失われた羊のように迷い出ました。
どうか、あなたのしもべを捜し求めてください。
わたしはあなたの戒めを忘れません。
最後に人は、自分が捜されるべき者であることを告白します。
ここに深い真実がある。
長く歩んだ者も、
多くを学んだ者も、
契約を重んじてきた者も、
なお自分を完全者としては終えない。
迷い出る可能性。
ずれる危うさ。
羊のような弱さ。
それを知ることが、
最後の高慢を砕く。
ここで誇りは激しく抵抗する。
「お前はもう十分だ」
「捜される側ではない」
「最後まで自分で立った顔をしろ」
だが、そうして倒れた者は多い。
契約の終わりに必要なのは、
自己完成の宣言ではない。
主よ、わたしを捜してください、という祈りである。
それでもなお希望がある。
戒めを忘れていない。
完全ではなくとも、
なお主の方を向いている。
これが大きい。
失われた羊のようでも、
主を忘れたのではない。
だから捜し出される。
だから見捨てられない。
だから契約は、
人の握力ではなく、
主の捜し求める憐れみによって完成へ向かう。
結び
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
最後まで強がる者を喜ばれない。
むしろ、
自らの弱さを知り、
なお主の御前へ叫びを近づける者を退けられない。
ここまで御言葉を愛し、
ここまで敵と向き合い、
ここまで義を求めて来ても、
なお人は羊である。
迷い得る。
ずれ得る。
砕かれ得る。
だが、それで終わりではない。
主は捜される。
主は見つけ出される。
主は御手を備え、
御言葉にしたがって悟りを与え、
叫びを御前に届かせ、
生かし、
賛美を再びくちびるに置かれる。
だからわたしは知る。
最後に契約を守り抜くのは、
人の意地ではない。
主の真実である。
主の憐れみである。
主の捜し求める愛である。
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
迷う羊をも見失われない。
それゆえ、
わたしは最後まで自分を誇らない。
最後まで主に向かって叫ぶ。
最後まで主の憐れみにすがる。
恐れに王冠を渡さない。
詩編第125編
「揺るがぬ山のように――主に信頼する者を囲む守りと、まっすぐな者への平和」 詩編124編で巡礼者は、もし主が味…
ここからは 詩編124編、主が味方でおられなければ呑み込まれていた――という、救いの実感が一気に前面へ出る箇所です。
詩編第124編 「もし主が味方でなかったなら――呑み込まれず、罠から逃れた民の告白」 詩編123編で、巡礼者は…
詩編第123編
「目を上げる先は王座――あわれみを待つしもべのまなざし」 詩編122編で、巡礼者は主の家へ上る喜びを語り、都の…