ここが急所だ。敵はいつも「慈しみは消えた」と囁く。そうして祈りを絶望に変える。だが詩編は、絶望に沈まず、慈しみを根拠に主へ問い詰める。これは反抗ではない。契約への執着だ。
ヨブとして言う。苦しみの中で信仰を守る最強の技は、約束を捨てずに主へ持ち出すことだ。主よ、あなたが誓った。あなたが語った。だから私は問う。慈しみはどこだ。恐れに王冠を渡さないために、私はあなたに問う。
89:50(アブラハム)
「主よ、あなたのしもべの受けるそしりを思い起こしてください。わたしが多くの民の侮りを胸に抱いていることを。」
「嘲りが胸に刺さっている。これを主よ、見てください。」
嘲りは霊的武器だ。敵は嘲りで共同体を黙らせる。「信仰など笑い話だ」と。嘲りに屈すると、人は言葉を失い、祈りを失い、最後に神の名を口にしなくなる。
アブラハムは、この嘲りを“主の前に”持ってくる。胸に抱えたまま腐らせない。主よ、これを見てください。嘲りを主の前に置くとき、嘲りは支配を失う。嘲りで自分を定義するな。主の名で定義せよ。
89:51(ヨブ)
「主よ、あなたの敵がそしり、あなたに油を注がれた者の足跡をそしることを。」
「彼らは私を嘲っているのではない。あなたの油注ぎを嘲っている。」
ここで戦いの本質が露出する。敵の狙いは、人格ではなく 油注ぎ、つまり神の働きそのものだ。敵は人の失敗を材料にして、神を嘲る。「信仰は無力」「神は守れない」。
ヨブとして言う。ここで怒りを人に向けてはいけない。焦点は主に属する。嘲りは、主の名を汚す戦術だ。だから祈りは主へ向かう。主よ、あなたの名のために介入してください。恐れに王冠を渡さないために、私はあなたの名にしがみつく。
89:52(アブラハム)
「主はとこしえにほむべきかな。アーメン、アーメン。」
「結末が見えなくても、祝福で締める。これが信仰の勝ち方だ。」
ここが不思議な終わりだ。問いは残ったまま、現実もまだ崩れている。しかし最後に、主をほめたたえる。敵はここを壊したい。最後に祝福で締める口を塞ぎたい。なぜなら、祝福は王座宣言だからだ。
アブラハムは、約束がまだ見えない時にも、主を礼拝した。信仰は状況の完成を待たずに、主の主権を告白する。アーメンとは「そうです」「確かです」。主の誠は確かだ、と最後に押印する。
結び(ヨブ)
わたしはウツの人ヨブ。主は嵐の中から語られ、誓いを捨てるな、嘲りに沈黙するな、恐れに王冠を渡すなと命じられる。
だから私は宣言する。恐れに王冠を渡さない。
慈しみが見えなくなった夜でも、私は契約の慈しみを主に問い、誓いを握り、嘲りを主の前に置く。最後の言葉は敵の嘲りではない。「主はとこしえにほむべきかな。アーメン、アーメン。」
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