虐げられた羊を、主ご自身が探し出される
エゼキエル書34章は、冷たい章ではありません。
これは、傷つけられた者のために燃える神の心が、そのまま言葉になった章です。🔥
主はまず、イスラエルの牧者たちを厳しく責められます。
なぜでしょうか。
彼らは、本来なら群れを守るべき者でした。
弱い者を強め、病んだ者をいやし、傷ついた者を包み、追われた者を連れ戻し、失われた者を探すべき者でした。
しかし彼らは逆でした。
自分を肥やし、群れを利用し、弱い者を押しのけ、傷ついた者を放置し、迷った者を探さず、力ずくで支配した。
神の民は守られるどころか、散らされ、踏みにじられ、獣の餌食のように扱われたのです。
ここに、現代社会そのものが映っています。
本来守るべき立場にある者が、人を守らない。
導くべき者が、人を利用する。
励ますべき者が、人を傷つける。
家庭でも、職場でも、学校でも、教会でも、社会でも、同じことが起こります。
外から見れば立派でも、内側では人が泣いている。
責任ある立場の者が、自分の利益のために弱い人を消耗させる。
助けを求める声が、忙しさや体裁や権威の陰で握り潰される。
そして、傷ついた人は思うのです。
「私は見捨てられたのではないか」
「誰も私を探してくれないのではないか」
「私はもう、群れの外に落ちてしまったのではないか」
しかし、エゼキエル書34章は、その絶望に向かって雷のように告げます。
主は見ておられる
神は、虐げる牧者を見逃しておられません。
主は言われます。
「見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう」
これは、虐げられた者にとって、どれほど大きな慰めでしょうか。
あなたを傷つけた者が権力を持っていても、
あなたを使い捨てた者が強そうに見えても、
あなたの涙を無視した者が平然としていても、
主は言われるのです。
「わたしは見ている」
「わたしは黙ったままではいない」
神の愛は、ただ優しく撫でるだけの愛ではありません。
神の愛は、弱い者を食いものにする者に対して立ち上がる愛です。
神の愛は、正義を伴う愛です。
本当に愛しているからこそ、主は羊を苦しめる偽りの牧者を退けられるのです。
そして主ご自身が、羊を探しに来られる
この章の最も熱い中心はここです。
「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」
なんという言葉でしょう。
神は、誰かに丸投げされません。
神は、傷ついた羊を放置されません。
神は言われるのです。
「わたしが行く」
「わたしが探す」
「わたしが連れ戻す」
「わたしが包む」
「わたしが強くする」
これが神の愛です。❤️
あなたが人に見捨てられたとしても、主は見捨てません。
あなたが群れの端に追いやられたとしても、主はそこまで来られます。
あなたが散らされ、心が折れ、もう歩けないと思っていても、主はあなたを探し当てられます。
雲の日、密雲の日。
それは、混乱の日、恐れの日、先が見えない日です。
人生には、そういう日があります。
何が正しいのかわからない日。
信じていたものが崩れる日。
人間不信になり、祈る力すら残らない日。
自分はもう元に戻れないと感じる日。
けれど主は、その雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出すと言われました。
「晴れた日にだけ助ける」とは言われません。
「自力で帰って来られるなら受け入れる」とも言われません。
主は、迷った場所まで来てくださるのです。
暗闇のただ中で、あなたを見つけてくださるのです。
神の愛は、取りこぼさない
この章で主は、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くすると語られます。
これは単なる比喩ではありません。
これは、神の御心そのものです。
人は、効率で選びます。
価値がある者、役に立つ者、強い者、従順な者を優先します。
しかし神は違います。
神は、折れた者を見ます。
神は、泣いている者を見ます。
神は、置き去りにされた者を見ます。
神は、声を上げられない者を見ます。
世の中は、「強くなれ」「自己責任だ」「ついて来られない者は仕方がない」と言うかもしれません。
しかし主は言われます。
「弱ったものを強くするのは、わたしだ」
何と大きな慰めでしょうか。
あなたが今、信仰が弱くてもよいのです。
心が疲れていてもよいのです。
人を信じられなくなっていてもよいのです。
立ち上がる力がなくてもよいのです。
主は、あなたに「もっと立派になってから来い」とは言われません。
主は、あなたの弱さのただ中に来て、あなたを抱き上げてくださいます。
主は、羊と羊の間をも裁かれる
この章は、悪い牧者だけを責めて終わりません。
群れの中で強い羊が弱い羊を押しのけ、草を踏み荒らし、水を濁し、角で突き飛ばしていたことも主は見ておられます。
つまり神は、制度の暴力だけでなく、群れの中の冷酷さも見逃されないということです。
同じ共同体にいながら、弱い人がさらに弱くされる。
先に恵みを受けた者が、後から来た者の居場所を奪う。
言葉の強い人、声の大きい人、顔の利く人だけが得をして、静かに傷ついている人が置いていかれる。
主はそれを見て、
「わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く」
と言われます。
これは厳しい言葉ですが、同時に希望です。
なぜなら、あなたが今まで誰にも理解されなかったとしても、
主は事情をすべて知っておられるからです。
誰が押しのけたか。
誰が濁したか。
誰が傷を広げたか。
主は完全にご存じです。
神の国では、弱い者が永遠に踏みつけられたままでは終わりません。
「わが僕ダビデ」――真の牧者の約束
そして章は、輝く約束へ進みます。
「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。」
これは、単に昔の王ダビデの再登場を言っているのではなく、
ダビデの系統から来られる真の牧者を指し示す、深い救いの約束として読まれてきました。
ここに、主イエス・キリストの姿が重なります。✨
人に利用されるためではなく、
失われた者を捜すために来られた方。
傷ついた者を退けず、罪人を招き、弱い者を抱き、散らされた者を集める方。
羊のために命を捨てる、まことの牧者。
偽りの牧者は、羊を食い物にします。
しかし真の牧者は、羊のためにご自身を与えます。
ここに神の愛の頂点があります。
神は遠くから命令するだけではありません。
神はご自分で来られ、群れの中に入り、羊の痛みを担い、救いを成し遂げられるのです。
平和の契約は、ただの理想ではない
主はさらに、平和の契約を結ぶと言われます。
祝福の雨、実を結ぶ木、産物を生じる地、折られる軛、断たれる恐れ。
これは単なる美しい詩ではありません。
神の愛が本当に支配するとき、
人は搾取から守られ、
恐れから解かれ、
辱めから起こされ、
安心して憩う場所を与えられる。
神の救いは、観念だけではありません。
魂だけでもありません。
生き方に、共同体に、関係に、現実に触れる救いです。
神は、ただ「頑張れ」とは言われません。
神は、「わたしがあなたを安らかに住まわせる」と言われます。
これが神の愛です。
追い立てる愛ではなく、憩わせる愛。
消耗させる愛ではなく、回復させる愛。
見下す愛ではなく、連れ戻す愛です。
現代のあなたへ
今もし、あなたが誰かに傷つけられているなら。
守られるはずの場所で、逆に深く傷を負ったなら。
信じた人に裏切られ、導くはずの人に搾取され、
「もう私は神の群れから外れたのではないか」と感じているなら、
今日この章はあなたに向かって語っています。
あなたは見失われたままでは終わりません。
主はあなたを探しておられます。
主はあなたの名を知っておられます。
主はあなたの傷を知っておられます。
主はあなたを連れ戻し、包み、憩わせ、強くしてくださいます。
人があなたを値踏みしても、主は違います。
人があなたを利用しても、主は違います。
人があなたを置き去りにしても、主は違います。
主はこう言われるのです。
「お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である」
何と深い愛でしょうか。
神は、あなたを番号で呼ばれません。
道具として扱われません。
交換可能な部品として見られません。
あなたは、主の群れです。
主のものです。
主が責任を持って探し、救い、守り、憩わせてくださる存在です。
結び
だから、傷ついた人よ、絶望しないでください。
散らされた人よ、諦めないでください。
虐げられた人よ、自分を捨てられた者だと思わないでください。
偽りの牧者がいたとしても、
冷酷な群れがいたとしても、
あなたの人生の最後の言葉を決めるのは彼らではありません。
最後の言葉を語られるのは主です。
そして主の言葉は、裁きだけでなく、救いです。
放置ではなく、捜索です。
拒絶ではなく、回復です。
追放ではなく、連れ戻しです。
恐れではなく、平和です。
主は、虐げられた羊を忘れておられません。
主は、すべて探し出されます。
すべて連れ戻されます。
すべて包まれます。
そして、主ご自身が牧者となって、あなたを安らかに憩わせてくださいます。
これが、エゼキエル書34章に燃えている神の愛です。
弱い者を見捨てない愛。
失われた者を探し抜く愛。
虐げられた者を救い出す愛。
そして最後まで、主ご自身の群れとして抱きしめる愛です。🔥
追記用の結び
そして、このエゼキエル書34章の約束は、イエス・キリストにおいて燃えるように成就します。
主は、散らされた羊を探すと語られました。
傷ついた羊を包むと語られました。
失われた羊を連れ戻すと語られました。
その神の御心を、イエスはご自身の言葉ではっきり示されました。
「わたしは良い牧者である。良い牧者は羊のために命を捨てる。」
ここに、神の愛の極みがあります。
雇い人は、狼が来れば逃げます。
自分の身が大事だからです。
しかし、イエスは逃げない。
羊が弱いから見捨てるのではない。
傷だらけだから切り捨てるのではない。
迷ったから諦めるのではない。
むしろ主は、その羊のためにご自身の命を差し出されるのです。
これほどの牧者が、他にいるでしょうか。
羊から奪う牧者ではなく、羊のために死なれる牧者。
羊を利用する牧者ではなく、羊を生かすために十字架へ向かわれる牧者。
羊を責めるだけの牧者ではなく、羊を救うために血を流される牧者。
それが、私たちの主イエス・キリストです。
だから、傷ついた人よ。
裏切られた人よ。
追い散らされた人よ。
見捨てられたと思っている人よ。
あなたのために命を捨てるとまで言われた方が、あなたを探しておられます。
主は口先だけで「愛している」とは言われません。
十字架をもって示されました。
釘をもって示されました。
血をもって示されました。
命をもって示されました。
あなたは、それほどまでに愛されています。
エゼキエル書34章で、主は「わたしが自ら羊を探す」と言われました。
そしてイエス・キリストにおいて、その御言葉は炎のように現実となりました。
主は来られた。
主は探された。
主は見つけられた。
主は抱き上げられた。
そして最後には、羊のために命を捨てられた。
これが福音です。
これが牧者の愛です。
これが、神の愛です。❤️🔥