「主が建てられなければ――むなしい労苦を退け、賜物として受け取る家と子ら」
詩編126編で巡礼者は、
涙とともに蒔いた種が、
主の時に喜びの束となって戻ることを歌った。
その次に来るこの詩編127編は、
さらに鋭く、
人の労苦そのものが何によって立つのかを問う。
家を建てる。
町を守る。
朝早くから起き、
夜遅くまで働く。
子らを持ち、
未来へつなぐ。
どれも尊い。
だがこの詩編は、
その尊さをそのまま人間の功績へ渡さない。
主が建てられなければ、むなしい。
主が守られなければ、むなしい。
主が与えられなければ、重労働は不安の回転になる。
敵はここで、
恐怖と誇りを結びつける。
「お前が全部支えなければ終わる」
「もっと早く、もっと遅くまで、もっと必死に」
「主を信じるのはよいが、最後は自分だ」
だがこの歌は告げる。
主の外にある努力は、
立派に見えても空回りし得る。
反対に、
主の御手にある賜物は、
人の計算を越えて家を建て、
町を守り、
眠る者にも恵みを与え、
子らを未来の矢として立てられる。
127:1(アブラハム)
主が家を建てるのでなければ、
建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ、
守る者の見張りはむなしい。
土台の主権が主にないなら、労苦は形だけ残って中身を失います。
家を建てる。
これは大きな務めである。
住まいを整え、
家族を守り、
秩序を築き、
未来の場所を備える。
また町を守ることも同じである。
外敵を警戒し、
夜を見張り、
破れ口を防ぎ、
共同体を保つ。
どちらも必要だ。
主はここで、
家を建てることや見張ることを軽んじてはおられない。
だがその根を問われる。
誰が建てているのか。
誰が守っているのか。
ここで誇りは言う。
「お前の腕で立つ」
「お前が緩めば全部崩れる」
恐怖もそれに同意する。
「だから休むな」
「だから祈る前にもっと支えろ」
そうして人を、
主の外で必死に働かせる。
だが主が建てられないなら、
人の勤勉は空しくなり得る。
主が守られないなら、
見張りの鋭い目も十分ではない。
わたしもまた、
天幕の中で家族を守ることの重さを知った。
だが約束の家は、
わたしの手腕だけで建ったのではない。
主が建ててくださるのでなければ、
どれほど動いても核心は空のままであった。
127:2(ヨブ)
あなたがたが、
早く起き、
夜遅くまで休まず、
労苦の糧を食べるのは、
むなしいことだ。
主は愛する者に、
眠っている間にも賜物を与えられる。
不安に支配された労働は、実りではなく消耗を生みます。
早く起きること自体が悪いのではない。
夜遅くまで働くこと自体が罪でもない。
問題は、
その労苦が何に支配されているかである。
愛からか。
召しからか。
主への信頼からか。
それとも恐怖からか。
「自分が止まれば全てが終わる」という強迫からか。
ここで敵は巧妙である。
勤勉の姿を借りて、
不信仰を中へ流し込む。
忙しさを徳のように見せ、
休めぬ心を責任感と呼び、
眠れぬ夜を誠実の証明のように装う。
だが主は言われる。
それはむなしいことだ、と。
主の外で回転する労苦は、
いくら量を増しても魂を満たさない。
しかも驚くべきことに、
主は愛する者に、
眠っている間にも与えられる。
これは怠惰への許可ではない。
主権の回復である。
世界はお前が起き続けているから回るのではない、
という宣言である。
わたしは夜を知っている。
痛みで眠れぬ夜、
問いで胸が塞がる夜を知っている。
だがその夜にも、
主の御手は止まっていなかった。
わたしが眠れぬ時でさえ、
主はなお与える方であった。
127:3(アブラハム)
見よ、
子らは主の賜物、
胎の実は報いである。
未来は奪い取るものではなく、主から受けるものです。
ここで詩編は家から子へ移る。
建てること、
守ること、
働くこと。
その延長でなお、
人はしばしば次の世代まで
自分の計算の中へ閉じ込めようとする。
だが詩人はまず言う。
子らは主の賜物。
所有物ではない。
作品でもない。
名声の延長でもない。
主から託されるもの。
ここで誇りは、
子らを自分の成果へ変えようとする。
恐怖は逆に、
「お前が完璧でなければ未来は壊れる」と重荷に変える。
だが主の言葉は、
子らをまず賜物として受け取れと言う。
わたしは約束の子を待った。
人の力では生み出せぬと知りながら、
なお待たされた。
だから知っている。
子は主の賜物である。
人の焦りが生むものではなく、
主が時に従って与えられるものである。
賜物として受け取る時、
人は支配者ではなく管理者となる。
そこに柔らかさが生まれる。
そこに畏れが戻る。
127:4(ヨブ)
若い時の子らは、
勇士の手にある矢のようだ。
主が与えられた次の世代は、飾りではなく戦いの中で用いられる備えです。
矢は壁に掛けて眺めるためのものではない。
方向があり、
使命があり、
放たれるために整えられる。
若い時の子らもまた同じだ。
可愛がるだけで終わる存在ではない。
真理を受け、
まっすぐにされ、
時が来れば世へ向けて立たされる。
ここで敵は二つのすり替えを行う。
一つは、
子らをただ守るべき存在として閉じ込めること。
もう一つは、
逆に主の道を教えず、
方向のない矢として世へ投げ出すこと。
だが矢には成形が要る。
まっすぐでなければならない。
どこへ向かうかが定まらねばならない。
勇士の手にあるということは、
主の御手の下で整えられるべきだということでもある。
わたしは痛みの中でなお、
次に続く者たちの重みを思う。
人は自分一代の生存だけのために召されてはいない。
主は、
次の世代をもまた備えとして置かれる。
それゆえ家は、
ただ守る場でなく、
真理を仕込む場である。
127:5(アブラハム)
その矢筒をそれで満たしている人は幸いだ。
彼らは門で敵と語るとき、
恥を見ることがない。
主が備えられた次の世代は、家の誉れであるだけでなく、公の場での支えともなります。
矢筒が満ちている。
それは単なる数の話にとどまらない。
主が与えた備えが、
空ではないということ。
未来が途絶えていないということ。
家の証しが、
次へ渡されているということ。
門は公の場である。
裁きが行われ、
対話が交わされ、
争いが表に出る場所。
そこで恥を見ないとは、
主が与えられた備えが、
人前の戦いの中でも無力で終わらないということだ。
ここで敵は、
家の中だけ整えばよいと思わせる。
あるいは逆に、
外の評価ばかりを気にさせ、
内側の真理を軽く扱わせる。
だが主の賜物としての子らは、
内にも外にも関わる。
家で育てられ、
やがて門のところでも証しとなる。
わたしもまた知っている。
契約は一人の胸の中だけで完結しない。
次へ渡される。
そしてその継承が、
やがて公の場で
主の真実を恥とさせない力となる。
幸いなのは、
自分の手で満たした者ではない。
主の賜物を賜物として受け、
主の道の中で整えた者である。
結び
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
人の労苦を軽んじることなく、
その土台が主ご自身であるべきことを示される。
家を建てても、
主が建てられなければ空しい。
町を守っても、
主が守られなければ空しい。
早く起き、
遅くまで働き、
不安を糧として生きるなら、
魂は痩せてゆく。
だが主は、
愛する者に与えられる。
眠りの中にも賜物を置かれる。
子らを与え、
未来を備え、
次の世代を矢のように整えられる。
それゆえ、
わたしは焦りに王冠を渡さない。
不安に働きの主権を明け渡さない。
「お前が全部背負え」という偽りにも、
最後の命令権を渡さない。
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
崩れた者にもなお教えられる。
建てるのは主、
守るのは主、
与えるのも主である。
それゆえ、わたしは働く。
だが、主の外では働かない。
それゆえ、わたしは守る。
だが、主の外で見張らない。
それゆえ、わたしは受け取る。
賜物を、賜物として。
恐れに王冠を渡さない。