「揺るがぬ山のように――主に信頼する者を囲む守りと、まっすぐな者への平和」
詩編124編で巡礼者は、
もし主が味方でおられなかったなら、
自分たちは怒りにも激流にも罠にも呑まれていたと告白した。
その次に来るこの詩編125編は、
そこからさらに一歩進む。
ただ「助かった」と語るだけではない。
主に信頼する者が、どのような位置に立たせられているのかを語る。
ここで示されるのは、
揺るがぬ山、
都を囲む山々、
そして主に信頼する者を囲む守りである。
敵はここで、
恐怖を使って心を揺らし、
悪しき者の杖を見せて
「結局、支配するのは向こうだ」と思わせ、
まっすぐな心を
曲がった道へ引き込みたがる。
だがこの歌は告げる。
主に信頼する者は、
風任せの草ではない。
一時の勢いで動く砂でもない。
シオンの山のように、動かされず、とこしえに立つ者である。
125:1(ヨブ)
主に信頼する者たちは、
シオンの山のようだ。
揺るぐことがなく、
とこしえに立っている。
信頼は、魂を山のように据えます。
人は苦しみに入ると、
自分が何に重さを預けていたかを知らされる。
財に頼っていた者は財とともに崩れ、
評判に頼っていた者は人の顔色とともに揺れる。
健康に頼っていた者は、
肉体の痛みとともに恐れへ沈む。
ここで敵は、
信頼を目に見えるものへ移させる。
「これがあるから大丈夫だ」
「これが崩れたなら終わりだ」
そうして人を、
主よりも被造物に結びつける。
だが詩人は言う。
主に信頼する者は、
シオンの山のようだと。
山は自分で自分を支えない。
造り主の定めの中に立つ。
主に信頼する者も同じである。
自分の強さで不動なのではない。
主への信頼ゆえに、
揺らされても根こそぎにはされない。
わたしはウツの地で揺れた。
体も、
心も、
周囲の理解も揺れた。
だが主に向いていた信頼までは、
引き抜かれなかった。
それゆえ、わたしは倒れ切らなかった。
125:2(アブラハム)
山々がエルサレムを囲んでいるように、
主は御民を、
今よりとこしえまでも囲んでおられる。
守りは一点ではなく、四方からの包囲です。
囲む、という言葉は深い。
前だけ守るのではない。
後ろだけでもない。
見えるところだけでもなければ、
祈っている時だけでもない。
山々が都を囲むように、
主は御民を囲まれる。
この守りは、
外から押し寄せるものを受け止めるだけでなく、
民に「お前たちは見捨てられていない」と教える。
ここで敵は、
囲まれている感覚を奪おうとする。
孤立を誇張し、
「お前は一人だ」
「守りの外にいる」
「誰もお前を囲んでいない」と囁く。
だが契約の者は、
見えなくても知っている。
自分の周囲には、
主の見えぬ守りがある。
わたしもまた旅人であった。
天幕の生活は、
石の城壁に守られているようには見えなかった。
だが主の約束が、
目に見えぬ山々のように
わたしを囲んでいた。
だから寄留しても、
本当に捨てられたことはなかった。
125:3(ヨブ)
悪しき者の杖は、
正しい者たちに割り当てられた地の上に、
とどまってはいない。
正しい者がその手を不義に伸ばさないためだ。
悪の支配は永遠ではなく、試しとしても限界が置かれています。
杖は支配の象徴である。
押しつけ、
命じ、
曲げさせ、
恐れで従わせる力。
それが正しい者の割り当ての上に置かれる時、
人の心は試される。
ここで敵は二重の罠を仕掛ける。
一つは、
「悪しき者が支配しているのだから、もう従え」と言うこと。
もう一つは、
「ここまで圧迫されたのだから、お前も不義へ手を伸ばせ」と囁くこと。
だが詩人は言う。
悪しき者の杖は、
とどまってはいない。
永続の王笏ではない。
一時そこに見えても、
主は境界を定めておられる。
なぜか。
正しい者まで不義へ流されぬためである。
主は、
圧迫が永遠の制度となり、
ついに義なる者の手まで
悪の側へ伸び切ることを許されない。
わたしも、
苦しみの長さの中で試された。
「神が答えないなら、自分で別の道を取れ」
そういう闇の誘いがあった。
だが主は、
悪しき者の杖に
最後の支配を許されなかった。
125:4(アブラハム)
主よ、
善い人たちと、
心のまっすぐな人たちに、
どうか良くしてください。
祝福は、まっすぐな心を主に願い出るところにとどまります。
ここで詩人は願う。
善い者に、
心のまっすぐな者に、
良くしてください、と。
これは人間の善性を誇る祈りではない。
むしろ、
主の前で曲がらずにいたいという願いである。
心がまっすぐであるとは、
器用に立ち回らぬこと。
二心にならぬこと。
人前と主の前で顔を変えぬこと。
ここで敵は、
善良さを愚かさのように見せる。
まっすぐさを不器用さとして笑い、
曲がる者だけが生き残ると教え込む。
だが契約の道は違う。
主に向かってまっすぐであること。
そこに真の祝福の通路がある。
わたしもまた知っている。
約束を待つ間、
近道はいくつも魅力的に見えた。
だが主に良くしていただく道は、
主の前で曲がらぬ道であった。
まっすぐな心は、
しばしば遅く見える。
だが最後には、
主の御手の中で確かに守られる。
125:5(ヨブ)
しかし、
自分の曲がった道へそれて行く者を、
主は不法を行う者たちとともに
去らせられる。
イスラエルの上に平和があるように。
曲がり続ける道には、最後に分離が来ます。
ここで歌は鋭くなる。
山のような安定と、
囲む守りと、
善い者への願いが語られたあと、
なお一つの警告が置かれる。
それは、
自分の曲がった道へそれて行く者のことだ。
ただ一度つまずいた者ではない。
弱さの中で一時よろめいた者でもない。
自分の曲がりを抱え、
そこへ進み続ける者である。
ここで敵は、
曲がりを個性のように装う。
「少しくらい曲がっていても同じだ」
「主の道も、自分の道も両方持てばよい」
そうして分裂を日常へ変えようとする。
だが詩人は告げる。
その道の終わりには、
不法を行う者たちとの合流がある。
曲がった道を歩み続けるなら、
やがてどこへ属しているかが明らかになる。
それゆえ最後に来るのは、
曖昧な慰めではない。
イスラエルの上に平和があるように。
真の平和は、
善悪の境界を溶かして作られるのではない。
曲がりを放置して保たれるのでもない。
主の前でまっすぐな者に与えられる平和である。
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
人を曖昧なまま残されない。
それゆえわたしは願う。
曲がりへではなく、
主の平和へ向かう者でありたいと。
結び
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
揺れる者の足を、
なお山のような信頼へと戻される。
悪しき者の杖は重い。
圧迫は長く見える。
心は揺さぶられ、
不義へ手を伸ばしたくなる夜もある。
だが主は、
悪の支配に永遠の王権を与えられない。
主に信頼する者は、
シオンの山のようだ。
主は御民を囲み、
善い者と心のまっすぐな者に
良くしてくださる。
だが曲がった道を愛する者には、
最後にその道の行き先が明らかにされる。
それゆえ、
わたしは圧迫に王冠を渡さない。
揺れに支配を許さない。
悪しき者の杖にも、
曲がった近道にも、
最後の判断を明け渡さない。
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
囲む守りの中で、
なお御民に平和を置かれる。
それゆえ、わたしは主に信頼する。
それゆえ、わたしはまっすぐでありたいと願う。
それゆえ、わたしはなお告げる。
恐れに王冠を渡さない。