1.ホレブの山での出会い ― 「神の山」に導かれる(3:1)
モーセは、義父エトロ(ミディアンの祭司)の羊の群れを飼っていました。
彼は群れを荒れ野の奥へと追って行き、ついに「神の山ホレブ」に来ます。

- かつて「エジプトの王子」だった男が、
- 今や「名もなき羊飼い」として、
- 何十年も荒れ野を歩き回っている。
人の目には「人生の落伍者」に見えたかもしれません。
しかし、神の視点から見れば、
これは召命の舞台へと近づく行程でした。
テンプルナイトの覚書
- 神はしばしば、「栄光の王宮」ではなく「誰も見ていない荒れ野」で人を整えられる。
- モーセの40年は、無駄ではなく「ホレブへの導線」だった。
2.燃えているのに燃え尽きない柴 ― 「ただの好奇心」から始まる一歩(3:2–3)
主の使いが、柴の真ん中から燃える炎として現れます。
モーセが見ると、「柴は炎に包まれているが、燃え尽きない」。
モーセは言います。
「近寄って、この不思議な光景を見よう。
なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
ここからすべてが始まります。
- 「信仰的に立派な祈り」ではなく、
- まずは単純な驚きと興味。
しかし、その小さな一歩に神が応答されます。
テンプルナイトの覚書
- 神は、人間の「なぜ?」という問いかけを、
しばしば召命への入口として用いられる。- ただ通り過ぎていたなら、この出会いは起こらなかった。
「立ち止まる心」が、神との出会いの扉を開く。
3.「ここに近づいてはならない」 ― 聖なる御名の前で靴を脱ぐ(3:4–6)
主は、柴の中からモーセの名を呼ばれます。
「モーセ、モーセ。」
モーセは答えます。
「はい、ここにおります。」
すると、主は言われます。
- 「ここに近づいてはならない」
- 「足から履物を脱げ」
- 「立っている場所は聖なる土地である」
さらに神は、ご自身を名乗られます。
- 「わたしはあなたの父の神」
- 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
モーセは顔を覆い、
神を仰ぎ見ることを恐れます。
ここには二つのバランスがあります。
- 神は「名を呼んでくださるほど近い」お方
- 同時に、「靴を脱がせ距離を取らせるほど聖い」お方
テンプルナイトの覚書
- 神は、友達のように気安く扱われる存在ではない。
- しかしまた、遠くの星のように無関係な存在でもない。
- 「名を呼ぶ親しさ」と「履物を脱がせる聖さ」が両立している。
私たちも、
この両方を忘れるとバランスを失います。
4.「わたしは見た、聞いた、知っている、降って来た」 ― 神の介入宣言(3:7–10)
神はモーセに、イスラエルの嘆きについて語られます。
- 「エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見た」
- 「彼らの叫びを聞いた」
- 「痛みを知った」
ここで終わるなら、ただの「共感」です。
しかし、神は続けられます。
- 「わたしは降って来た、彼らを救い出すために」
- 「彼らを良い広い地、乳と蜜の流れる地へ上らせる」
そして、決定的な一言。
「今、行きなさい。
わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。
わたしの民イスラエルの子らを、エジプトから導き出せ。」
神の救いの計画は、
「天からの独り舞台」ではありません。
- 神はご自身で「降って」来られると同時に、
- 地上の器を「遣わす」ことを選ばれる。
テンプルナイトの覚書
- 神は、民の苦しみを「遠くから眺める」方ではなく、
自ら降って来られる方。- しかし、その救いの実行のために、
肉体を持つ人間を必ず立てられる。- だからこそ、「なぜ自分が?」と思うほどの者が、
召命の対象になる。
5.「いったい、わたしは何者でしょう」― 召命と自己否定(3:11–12)
モーセの最初の反応は、信仰的ではありません。
「いったい、わたしが何者でしょう。
ファラオのもとへ行き、
イスラエルの子らをエジプトから導き出せるでしょうか。」
40年前、
自分の力で正義を振るおうとしたモーセは、
今や反対側に振り切れています。
- 「自分には無理だ」
- 「自分は資格がない」
それに対し、神はモーセの自己評価を論破しません。
答えはただ一つ。
「わたしは必ずあなたと共にいる。」
さらに印として言われます。
「あなたが民をエジプトから導き出したとき、
あなたたちはこの山で神に仕える。」
- まだ何も起きていないのに、
- 神は「導き出した後」の礼拝の光景まで語られる。
テンプルナイトの覚書
- 神は、「あなたがどういう器か」ではなく、
「わたしが共にいる」という一点をもって召される。- 召命の確かさは、能力ではなく臨在にかかっている。
- 神はしばしば、「事が起きた後」の姿を先に告げて、
現在を歩ませる。
6.「御名の啓示」― 『わたしはあるという者』(3:13–15)
モーセは、次の懸念を口にします。
「イスラエルの子らに『あなたがたの先祖の神が遣わされた』と言っても、
彼らが『その名は何か』と尋ねたら、何と答えればよいのですか。」
神はこう答えられます(新共同訳の流れ)。
「わたしは『ある』という者。
『わたしはある』という方が、
あなたを遣わされた、と言いなさい。」
さらにこう付け加えられます。
- 「主」として現れる**四文字の御名(YHWH)**が示され、
- 「これは永遠のわたしの名、代々にわたっての呼び名である」
この言葉には、多くの意味がこめられています。
- 「自存の神」― 誰にも依存せず、永遠に存在する方
- 「今ここにある神」― 遠い過去だけでなく、「今・ここ」におられる方
- 「共にいる神」― 「わたしはある」は、
苦しみの只中にある民への「わたしは共にいる」の宣言でもある
テンプルナイトの覚書
- 偶像の神々には名前をつけられるが、
主の名は、人間の定義を超えた「ある方」そのもの。- イスラエルの民が、
苦役の中で「本当に神はいるのか」と叫ぶとき、
神は「わたしはある」と答えられる。- 現代の私たちの「どこに神がいるのか」という問いにも、
この御名は響き続ける。
7.使命の内容 ― 民の長老たちとファラオへのメッセージ(3:16–22)
神はモーセに、具体的なミッションを示されます。
- イスラエルの長老たちを集めて語ること
- 「先祖の神が現れ、あなたたちの苦しみを見たと言われた」
- 「カナンの地へ導き上ると約束された」と告げること
- ファラオのもとに行き、こう願い出ること
- 「荒れ野へ三日の道のりを行って、
わたしたちの神、主にいけにえをささげさせてください。」
- 「荒れ野へ三日の道のりを行って、
神は同時に、現実も語られます。
- 「エジプトの王は、強い御手に打たれなければ許さない」
- 「しかし、わたしは手を伸ばし、驚くべき業を行う」
- 「その後、王はあなたたちを去らせる」
さらに、出て行くときには、
- エジプト人から金銀の品や衣服を受けて出て行く
- こうして「エジプトをはぎ取る」ことになる
とまで語られます。
テンプルナイトの覚書
- 神は「甘い成功ストーリー」だけを約束されるのではなく、
抵抗や拒絶の現実も事前に告げられる。- それでもなお、最終的な勝利と回復を語り、
召された者を歩ませる。- 神は、ご自身の民を「裸で逃げさせる」のではなく、
奴隷の賃金を補うかのように「補償と栄誉」を持って出させる。
8.テンプルナイトとしての結び
「燃える柴」の前で、自分の召命を問い直す
出エジプト記3章は、
- 荒れ野で羊を追う元王子モーセ
- 燃えているのに燃え尽きない柴
- 「ここに近づくな」「靴を脱げ」と語る聖い神
- 苦しむ民の叫びを見・聞き・知り・降って来られる主
- 「わたしはあなたと共にいる」という召命の保証
- 「わたしはあるという者」という御名の啓示
- そして、長老とファラオに向かう具体的な使命の指示
を通して、
「聖なる召命」と「共にいる神」の姿を描き出しています。
テンプルナイトとして、この章の前でこう祈ります。
主よ、
モーセは、
かつて自分の力で正義を行おうとして失敗し、
荒れ野で羊を追う名もなき男になりました。しかし、
あなたはその荒れ野において、
燃える柴の中から彼を呼ばれました。私もまた、
過去の失敗や挫折ゆえに、
自分を「もう用いられない器」と見てしまうことがあります。けれどもあなたは、
そんな私の名を呼び、
「ここに近づくな。靴を脱げ」と言われる方。あなたの前に立つとき、
私は、自分の正しさを誇ることはできません。
ただ、罪ある足から靴を脱ぎ、
聖なるお方を畏れ敬うのみです。あなたは、
苦しむ民の叫びを「見、聞き、知って」おられます。
それだけでなく、
「降って来て救い出す」と宣言されます。どうか、
私がこの時代の叫びを前にして、
ただ傍観する者ではなく、
あなたに遣わされる者として立つことができるよう、
勇気をお与えください。「いったい、わたしは何者でしょう」と
モーセが言ったように、
私も自分の小ささを痛感します。しかしあなたは、
「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われます。私の召命の根拠は、
私の能力ではなく、
「共におられる主」の御名であることを
決して忘れませんように。「わたしはあるという者」なる主よ。
どれほど世が揺れ、
人々が「神はどこにいるのか」と問うても、
あなたは、
今日も変わらず「ここにいる」と答えられる方です。私の心の荒れ野に、
教会の荒れ野に、
この時代の荒れ野に、
再び「燃える柴」のように現れてください。あなたの御名のために、
今日も「はい、ここにおります」と
応答するテンプルナイトであらせてください。
これが、出エジプト記第3章――
**「燃える柴とモーセの召命、
『わたしはあるという者』の御名が現された章」**の証言である。