1.ベエル・シェバで立ち止まるヤコブ ― 「本当にエジプトへ下ってよいのか」(46:1–4)
ヨセフが生きていることを知り、
エジプトからの荷車と贈り物を見たヤコブは、
ついに決心します。
「イスラエルは、そのすべてのものを携えて出立し、
ベエル・シェバに来て、
父イサクの神にいけにえをささげた。」(要旨)
カナンからエジプトへ向かう途中、
ヤコブはベエル・シェバで足を止めます。
ここは、
- アブラハムが神と契約を結んだ地
- イサクが主の声を聞き、祭壇を築いた場所
ヤコブは、「単なる移住」ではなく、
神の御心を確かめるために祭壇を築きます。
テンプルナイトとして、
この姿勢は非常に重要です。
・飢饉という現実、
ヨセフが総理大臣になっているという朗報――
状況だけを見れば「行く以外ない」ように見えます。・しかしヤコブは、
“約束の地”カナンを離れ、
異教の大国エジプトに移住することが
本当に神の導きなのかを
祈りのうちに問うのです。
その夜、主は幻の中でヤコブに語られます。
「ヤコブよ、ヤコブよ。」
ヤコブは答えます。
「はい、ここにおります。」主は言われます。
「わたしは神、あなたの父の神である。
エジプトへ下ることを恐れてはならない。
わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。わたし自身があなたとともにエジプトへ下り、
あなたを必ずまた連れ上る。
ヨセフは、自分の手であなたの目を閉じるであろう。」(要旨)
ここに三つの約束があります。
- 「恐れるな、エジプトへ下れ」
- 約束の地を離れることは、本来“後退”に見える。
- しかし今回は、神ご自身が「行け」と言われている。
- 「そこで、あなたを大いなる国民とする」
- アブラハムへの約束(大いなる国民、星のような子孫)が
いよいよ“民族”として形を取るのは、
皮肉にもカナンではなくエジプト。
- アブラハムへの約束(大いなる国民、星のような子孫)が
- 「わたし自身が下り、また連れ上る」
- 神は、
「約束の地=神のいるところ」
「他国=神のいないところ」とはされない。 - 神ご自身が、
民とともに“下り”、
時が満ちるとともに“上らせる”。
- 神は、
テンプルナイトとして、
ここに「召し出しと派遣の二重構造」を見る。
・神は私たちを“約束の地”に植え、
そこに留まるように言われることがある。・しかし時に、
私たちを“エジプト”とも言える場所――
世のただ中、異教の文化、
信仰的に不利に見える環境へと
あえて遣わされることがある。・その時に大事なのは、
「自分の都合」で動くのではなく、
ベエル・シェバでヤコブがしたように、
祭壇の前で御声を確かめること。
2.エジプトへ下っていった者たち ― 「70人」という小さな群れ(46:5–27)
ヤコブは息子たちと、その家族と共に出発します。
- 息子たち
- その妻たち、子どもたち
- 家畜と財産
46章の多くの部分は、
エジプトに下って行ったヤコブの家族の系図に当てられています。
「こうして、ヤコブの腰から出た者のうち、
エジプトへ来た者は、
ヤコブの息子たちの妻を除いて、
66人であった。」(要旨)「ヨセフには、エジプトで二人の息子が生まれていた。」
「エジプトに入ったヤコブの家族の総数は、
70人であった。」(要旨)
「70」という数字は、聖書において
- “ひとまとまりの共同体”
- “完全な小さな単位”
を象徴することがあります。
アブラハムに与えられた約束は、
「天の星のように、海辺の砂のように」(無数)
でした。
しかし現時点でエジプトに入るヤコブ一族は、
“たった70人”。
まだまだ小さく、か弱い群れです。
テンプルナイトとして、
ここに慰めを見ます。
・神の約束は、
いきなり「星の数」から始まらない。・目に見える現実は、
ただの70人、
砂つぶで言えば一握りでしかない。・しかし天の書物には、
この70人が「大いなる国民」の
最初の“種”として記録されている。
私たちも、
- 小さな群れ
- 小さな教会
- ごくわずかな同志
から始めることが多い。
しかし、
神が「そこで、お前を大いなるものとする」と語られるなら、
70人は、やがて数えきれない群れへの始まりとなる。
3.ユダが先立って道案内をし、ヨセフとの再会へ(46:28–30)
ヤコブは、
ユダをヨセフのもとへ先に遣わし、
ゴシェンへの道を案内させます。
「ヨセフは、自分の戦車を整え、
ゴシェンへ上って、父イスラエルを迎えに行った。」(要旨)
ここで、長年待ち望まれた父子の再会が実現します。
「ヨセフは父に会うやいなや、
その首に抱きつき、
しばらくの間、泣き続けた。」(要旨)
ヤコブは言います。
「もう十分だ。
私の息子ヨセフがまだ生きている。
私は死ぬ前に、彼に会うことができた。」(要旨)
テンプルナイトとして、
ここには二つの流れが重なっています。
- 家族の物語の癒やし
- 「あの子は獣に裂かれた」と信じ込んでいた父が、
自分の手で息子の顔に触れている。 - 長年の悲しみと絶望が、
一瞬にして“感謝”へと反転している。
- 「あの子は獣に裂かれた」と信じ込んでいた父が、
- 救いの歴史の次の段階
- この再会は、
単なる感動の親子ドラマではない。 - ここからイスラエル民族はエジプトで増え、
やがて出エジプトという大いなる救いへと続いていく。
- この再会は、
神は、一つの家族の傷を癒やすと同時に、
世界救済の歴史を進めておられる。
4.「羊飼い」という身分と、ゴシェンという隔離された場所(46:31–34)
章の最後には、
次章への布石が置かれています。
ヨセフは兄弟たちにこう言います。
「私がパロの前に出て、こう言います。
『カナンの地にいた私の兄弟たちと父の家族が、
彼らの羊や牛とすべての所有物を携えて、
ここに来ました。』パロが『あなたがたの職業は何か』と尋ねたら、
『僕たちは若い時から今に至るまで
家畜を飼ってきた羊飼いです。
私たちも、父たちもそうです』
と答えなさい。」(要旨)
なぜか。
「エジプト人は、羊飼いを忌み嫌うからだ。」
つまり、
- イスラエルを“エジプトの文化と宗教のど真ん中”ではなく、
- ゴシェンというある程度隔離された土地に住まわせるための
策略でもあります。
テンプルナイトとして、
ここに霊的な知恵を見る。
・神は、自分の民を世から完全に隔離するのではなく、
世の中に「共存」させながらも、
アイデンティティが溶けきらないよう
“距離”を保つ場所を備えられる。・ゴシェンは、
エジプトの繁栄を享受しつつ、
同時に“別の民”として成長できる
不思議な緩衝地帯だった。
私たちも、
- この世の中(エジプト)のただ中に生きながら、
- 完全に同化せず、
- 信仰のアイデンティティを守る「ゴシェン」が
必要です。
それは、
礼拝の場であり、
祈りの時間であり、
兄弟姉妹との交わりであり、
家庭祭壇でありうる。
5.テンプルナイトとしての結び
「恐れるな、エジプトへ下れ。わたしはそこであなたを大いなる国民とする」
創世記46章は、
- ベエル・シェバでのいけにえと神の語りかけ
- 「エジプトへ下ることを恐れるな」という主の命令
- 70人の小さな群れとしてのイスラエル
- 父ヤコブとヨセフの再会
- ゴシェンへと導かれる準備
を通して、
**「約束の民が、一時的にエジプトという炉へと入れられるプロローグ」**を描きます。
テンプルナイトとして、この章の前でこう祈ります。
主よ、
ヤコブは、
約束の地カナンを離れる前に、
ベエル・シェバで祭壇を築きました。彼は、
目の前の飢饉と朗報だけで決断するのではなく、
あなたの御声を求めました。私もまた、
大きな決断をするとき、
ただ状況と損得だけで動いてしまう者です。どうか、
ベエル・シェバに立ち止まるヤコブのように、
決断の前に祭壇にひざまずき、
「主よ、これはあなたのみこころですか」と
問う心を与えてください。あなたはヤコブに、
「恐れるな、エジプトへ下れ。
わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする」
と語られました。私が「ここから離れたら終わりだ」と思う場所を
あえて離れさせられる時にも、「あなたが共に下り、
また連れ上ってくださる」
という約束を信じて歩ませてください。70人の小さな群れは、
やがて数えきれない民へと変えられました。私の小さな働き、
小さな家族、
小さな教会も、あなたの御手に握られるなら、
天の秤では重く数えられることを
信じさせてください。父と子が再会した時、
長年の悲しみが涙と抱擁によって溶かされました。私の中にも、
解かれていない痛みや、
凍ったままの関係があります。どうか、
あなたの御手がその中に介入し、
ヨセフとヤコブのように、
涙と赦しの再会を
経験させてください。エジプトのただ中で、
ゴシェンという“信仰の居場所”を備えられたように、
この世のただ中で、
あなたと共に歩む聖なる空間を
私にも守らせてください。約束の地を目指しながら、
一時的にエジプトを通過する民として、どこにいても、
「インマヌエルの神が共におられる」
という信仰を持ち続ける
テンプルナイトであらせてください。
これが、創世記第46章――
**「神ご自身が共に“下り”、共に“上る”と約束された、エジプト移住の章」**の証言である。