「目を上げる先は王座――あわれみを待つしもべのまなざし」
詩編122編で、巡礼者は
主の家へ上る喜びを語り、
都の平和のために祈った。
その次に置かれる詩編123編は、
その喜びのただ中にありながら、
なお消えていない現実――
侮り、軽蔑、見下し、あざけりの中で、
主に向かって目を上げ続ける歌である。
ここでは手が動く前に、
まず目の向きが問われる。
どこを見るのか。
侮る者の顔か。
圧をかける者の態度か。
自分を小さくする空気か。
それとも、
天に座しておられる主か。
敵はここで、
視線を下へ引きずる。
侮辱へ、
比較へ、
自己弁護へ、
怒りへ。
だがこの詩編は、
しもべが主人の手を見るように、
女奴隷が女主人の手を見るように、
ただ主のあわれみを待つために目を上げよと命じる。
123:1(ヨブ)
天に座しておられる方よ、
わたしはあなたに向かって
目を上げます。
視線は、苦しみの中で魂の主権を決めます。
人は傷つくと、
すぐ傷の方を見る。
侮られると、
侮った者の顔を見つめる。
軽く扱われると、
自分の小さくされた姿ばかりを追う。
ここで敵は、
目を低いところへ縛りつける。
人の評価、
あざけり、
その場の空気、
そして「お前はこの程度だ」という
偽りの定義へ。
だが詩人は、
まず天に座しておられる方へ目を上げる。
地にいても、
塵の中にいても、
自分の置かれた低さに最終の意味を決めさせない。
わたしもまた、
灰の中に座り、
人の目には敗れた者のように見えた。
だがわたしが見上げた先に、
なお王座はあった。
人の評価は揺れる。
だが天の王座は揺れない。
ここが戦いである。
何が自分を定義するのか。
侮りか。
痛みか。
それとも天に座しておられる主か。
123:2(アブラハム)
ご覧ください。
しもべたちの目が主人の手に向けられ、
女奴隷の目がその女主人の手に向けられるように、
わたしたちの目は、
わたしたちの神、主に向けられています。
主がわたしたちをあわれんでくださるまで。
待つ者の目は、助けのしるしを見逃しません。
手を見る。
それは命令を待つ姿であり、
合図を待つ姿であり、
与えられる時を見極める姿である。
勝手に走り出さず、
見失わず、
目をそらさない。
ここで先送りと焦りが同時に来る。
先送りは言う。
「どうせすぐには来ない」
焦りは言う。
「待っても仕方がない、自分で動け」
だがしもべの目は、
主人の手から離れない。
それは受け身ではない。
最も集中した姿勢である。
わたしも約束を受けた時、
ただ空を見ていたのではない。
主の御手の動きを待った。
子の約束も、
土地の約束も、
人の手で早めれば歪むことを知ったからである。
あわれみが下るまで。
この「まで」は重い。
一瞬では終わらぬこともある。
だが目をそらした瞬間、
心は別の主人を探し始める。
だから、わたしたちの目は主に向けられている。
123:3(ヨブ)
主よ、
わたしたちをあわれんでください。
あわれんでください。
わたしたちは、
あまりにも多くの侮りを受けているからです。
繰り返される願いは、傷の深さを示します。
一度で足りぬ祈りがある。
あわれんでください。
そしてもう一度、
あわれんでください。
それは信仰の弱さではない。
圧迫の深さゆえである。
侮りは人を削る。
殴らずとも傷つけ、
奪わずとも萎えさせる。
「お前は取るに足りない」
「黙っていろ」
「そこに立つ資格はない」
そうした空気が、
魂をすり減らす。
ここで敵は、
侮りを軽く見せる。
「気にしすぎだ」
「受け流せばよい」
だが侮りは、
長く浴びれば骨まで冷やす。
だからわたしは願う。
あわれんでください。
ただ状況を変えてください、だけではない。
侮りに傷ついた魂を、
主よ、なお主の前に立てるようにしてください、と。
わたしは友らの視線を知っている。
慰める顔をしながら、
わたしを罪人の席へ押し込めようとした目を知っている。
だからこそ、
あわれみの必要を知っている。
人の裁きの中ではなく、
主のあわれみの中でこそ、
魂は再び息をする。
123:4(アブラハム)
わたしたちのたましいは、
安逸な者たちのあざけりと、
高ぶる者たちの侮りとに、
もう十分にさらされています。
満ちるほど浴びた軽蔑の中で、なお主を見失わぬことが必要です。
「あまりにも多く」
「もう十分に」
ここには蓄積した疲れがある。
一度の冷笑ではない。
長く続く見下し、
余裕ある者のあざけり、
高ぶる者の鼻で笑う態度。
安逸な者は、
痛みを知らぬまま他者を裁く。
高ぶる者は、
自分の位置を当然とし、
苦しむ者を見下ろす。
その目は鋭い矢のように、
静かに魂へ刺さる。
ここで敵は、
二つの道を差し出す。
一つは、
その侮りを内面化して自分を小さくすること。
もう一つは、
同じように高ぶってやり返すこと。
だが契約の者の道は、
どちらでもない。
侮りに飲まれず、
侮りを模倣せず、
なお主のあわれみを待つ。
わたしは王たちと対話し、
町々の栄えも見た。
だが人の高ぶりが、
いかに脆い土台の上に立つかを知った。
安逸は永遠ではない。
高ぶりもまた裁かれる。
だから、
侮りを浴びても、
わたしたちの目は地に落ちたままでは終わらない。
主のあわれみへ向けて保たれる。
結び
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
侮りの中でうつむく者の顎を上げ、
なお天の王座へ目を向けさせられる。
侮りは深く刺さる。
あざけりは魂を削る。
高ぶる者の冷たい目は、
痛みそのものに劣らぬ傷を残す。
だがそれでも、
わたしたちの目は侮る者に支配されない。
しもべが主人の手を見るように、
わたしたちは主を見る。
あわれみが下るまで、
目をそらさずに待つ。
ここに、
怒りより強い忍耐があり、
自己弁護より深い信頼がある。
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
人の侮りに縮んだ魂を、
ご自身のあわれみによって再び広げられる。
それゆえ、わたしはなお目を上げる。
それゆえ、わたしはなお待つ。
それゆえ、わたしはなお願う。
恐れに王冠を渡さない。
ここからは 詩編124編、主が味方でおられなければ呑み込まれていた――という、救いの実感が一気に前面へ出る箇所です。
詩編第124編 「もし主が味方でなかったなら――呑み込まれず、罠から逃れた民の告白」 詩編123編で、巡礼者は…
詩編第122編
「主の家へ上る喜び――平和を祈る都、集められた民の歌」 詩編121編で、巡礼者は山を見上げつつも、助けが山から…
詩編第121編
「山を仰いでも、助けは山からではない――眠らぬ守りの主」 詩編120編で、巡礼者は偽りの舌と戦いを愛する者たち…