詩編第124編
「もし主が味方でなかったなら――呑み込まれず、罠から逃れた民の告白」
詩編123編で、巡礼者は
侮りとあざけりの中で、
なお天に座しておられる主へ目を上げ、
あわれみを待ち続けた。
その次に置かれる詩編124編は、
待った者がいま振り返って告白する歌である。
「もし主が味方でおられなかったなら。」
ここでは救いは観念ではない。
現実に呑み込まれかけ、
現実に押し流されかけ、
現実に罠へかかりかけた者が、
なお滅び切らなかった理由を語る。
敵はここで、
怒りを激流のように押し寄せさせ、
恐怖を「もう終わりだ」という確信へ変え、
罠を見えぬところに仕掛け、
人を生きたまま呑み込もうとする。
だが契約の民は知る。
助かったのは自分が強かったからではない。
見抜けたのは自分が賢かったからでもない。
主が味方でおられたからである。
124:1(ヨブ)
もし主が、
わたしたちの味方でおられなかったなら――
さあ、イスラエルは言え。
救いは、まず「もし主でなかったなら」という境界から見えてきます。
人は危機を過ぎると、
すぐ自分の耐久力を数え始める。
どれほど耐えたか、
どれほど賢く切り抜けたか、
どれほど踏みとどまったか。
だがこの歌は、
最初から人の力を切り離す。
もし主が味方でおられなかったなら。
ここで誇りは砕かれる。
自分で立ったように見えた歩み、
自分で守ったように思えた信仰、
自分で乗り切ったように感じた夜。
そのすべてに、
見えぬ主の手があったことを告白させられる。
わたしもまた知っている。
自分の忍耐が自分を最後まで支えたのではない。
主が味方でおられなかったなら、
わたしは灰の中で信仰ごと沈んでいた。
124:2(アブラハム)
もし主が、
人々がわたしたちに立ち向かったとき、
わたしたちの味方でおられなかったなら。
敵が立ち上がる時、最も重要なのは数でも勢いでもなく、主がどちらにおられるかです。
人が立ち向かう。
敵意をもって、
圧をもって、
囲い込むようにして。
その時、
人は相手の数や力ばかりを見やすい。
ここで恐怖が働く。
「向こうが多い」
「向こうが強い」
「向こうが先に動いた」
そうして心を、
敵の立ち上がりそのものに支配させようとする。
だが詩人は別の問いを置く。
主はどちらにおられるのか。
そこが決定的である。
わたしもまた、
国々の間で寄留し、
王たちの前に立ち、
約束を抱えながらも外側では小さく見える時があった。
だが契約を支えるのは、
地上の人数ではなかった。
主が味方でおられること、
それがすべてを変えた。
124:3(ヨブ)
そのとき彼らは、
怒りを燃やして、
わたしたちを生きたまま呑み込んだであろう。
敵の怒りは、ただ傷つけるだけでなく、存在ごと呑み込もうとします。
ここには穏やかな敵意ではなく、
燃える怒りがある。
人を黙らせるだけでなく、
消してしまいたいという衝動。
生きたまま呑み込むとは、
肉体だけではない。
評判も、立場も、証言も、
希望さえも丸ごと呑み込むことだ。
ここで敵は、
怒りを正義のように装う。
「お前を裁いているのだ」
「お前が悪いから押しつぶされるのだ」
そうして暴力に正当化の衣を着せる。
だが詩人は見抜く。
それは正義ではない。
呑み込もうとする怒りである。
わたしは友らの言葉の中にも、
説明の顔をした呑み込みを見た。
わたしの苦しみを理解するのでなく、
それを自分たちの教理へ吸い込もうとする手を見た。
だが主が味方でおられたゆえに、
わたしは完全には呑み込まれなかった。
124:4(アブラハム)
そのとき、
大水はわたしたちを押し流し、
流れはわたしたちの上を越えたであろう。
危機はしばしば、一撃ではなく激流のように押し寄せます。
水は形を持たない。
だからこそあらゆる隙に入り込み、
足元を奪い、
立っている者を運び去る。
敵の働きもこれに似ている。
露骨な攻撃だけではない。
疲れ、
誤解、
恐れ、
先送り、
小さな妥協。
そうしたものが一つの流れとなって、
人を主の道から押し流そうとする。
ここで敵は、
「まだ立てる」と思わせながら足元を削る。
一度に倒さなくとも、
流れの中へ引き込めばよいと知っているからである。
わたしが約束を待った歳月にも、
見えぬ流れがあった。
焦りの流れ、
人の工夫へ頼らせる流れ。
だが主が味方でおられたから、
流され切ることはなかった。
124:5(ヨブ)
そのとき、
荒れ狂う水は、
わたしたちの上を越えたであろう。
表面の揺れではなく、全身を越えて行く圧力から主は守られます。
静かな流れではない。
荒れ狂う水である。
制御不能に見え、
押し返せず、
飲まれれば終わりと思わせる力。
ここで恐怖は極まる。
「もう手遅れだ」
「この勢いには勝てない」
「ここまで来たなら終わりだ」
だが詩人は、
実際に越えられたのではなく、
越えたであろうと言う。
現実にそうなりかけたが、
最後のところで主がとどめられたのである。
わたしは痛みが全身を越える感覚を知っている。
外の災いだけでなく、
内の問いが胸を満たし、
まるで波が頭上を閉じるような夜を知っている。
だが波は主の許しを越えて支配しなかった。
主が味方でおられたからである。
124:6(アブラハム)
ほむべきかな、主。
主は、
わたしたちを彼らの歯の餌食として
引き渡されなかった。
救いを知る者は、賛美を差し出さずにはいられません。
ここで歌は転じる。
仮定から賛美へ。
危機の想像から、
現実の救いの告白へ。
歯はむき出しの捕食の象徴である。
相手を裂き、
噛み砕き、
自分の糧とする意志。
敵はしばしば、
人を人として扱わず、
利用し、
消耗させ、
自分の優位の材料に変えようとする。
ここで分断と誇りが結びつく。
誰かを餌食にしてでも、
自分が上に立とうとする。
だが主は、
ご自分の民をその歯へ渡されなかった。
完全に餌食とならぬよう、
境界を引かれた。
だから「ほむべきかな、主」である。
助かったあとでなお沈黙するなら、
心は再び自分の功績を数え始める。
だが賛美は、
王座を主へ返す行為である。
124:7(ヨブ)
わたしたちのたましいは、
鳥のように、
鳥を捕る者の罠から逃れた。
罠は破れ、
わたしたちは逃れた。
主の救いは、見えなかった束縛を断ち切ります。
罠は正面から来ない。
見えぬように置かれ、
気づいた時には足を取る。
それが罠である。
敵は正面の怒りだけでなく、
隠れた仕掛けも用いる。
甘い言葉、
都合のよい近道、
自己弁護、
霊的な鈍さ。
それらは鳥を捕る者の罠のように、
気づかぬところで魂を締める。
ここで先送りが顔を出す。
「まだ大丈夫だ」
「そのうち解ける」
そうして人を罠の中に長居させる。
だが詩人は言う。
罠は破れた。
自力でほどけた、ではない。
破れた。
外から断ち切られたのである。
わたしもまた、
絶望の輪の中に閉じ込められかけた。
問いが問いを生み、
苦しみが自己疑念を増し、
そこから出られぬように思えた。
だが主が裂かれた。
それゆえ、わたしは逃れた。
124:8(アブラハム)
わたしたちの助けは、
天と地を造られた主の御名にある。
最後に残る告白は、助けの源をただ一つに定めます。
ここで歌は再び根に戻る。
助けはどこにあるのか。
自分の経験か。
他者の支持か。
うまく切り抜けた知恵か。
違う。
主の御名にある。
しかもその主は、
天と地を造られた方である。
被造物の中に助けを探すのでなく、
創造主の御名へ自分を結びつける。
ここで敵は、
助けを細分化させる。
「あれもこれも少しずつ頼れ」
「主も選択肢の一つにしておけ」
だが契約の告白は曖昧でない。
助けは主の御名にある。
わたしが歩んだ旅も、
主の御名なしには意味を持たなかった。
土地も、
子孫も、
祝福も、
その名によって初めて確かになった。
だから最後の支えも、
やはりその御名である。
結び
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
呑み込まれかけた者をなお境界のこちら側へ保たれる。
怒りは燃えた。
流れは押し寄せた。
荒れ狂う水は頭上を越えるかに見えた。
罠は見えぬところに置かれ、
歯はわたしを餌食にしようと待っていた。
だが、
もし主が味方でおられなかったなら――
その言葉の重みを知る者は、
もう自分を誇れない。
ただ告白する。
主が味方でおられた。
それゆえ、わたしはなお生きている。
わたしはウツの人ヨブ。
主は嵐の中から語られ、
激流にも、
罠にも、
人の怒りにも、
最後の支配を許されない。
それゆえ、わたしはなお賛美する。
それゆえ、わたしはなお逃れたと告白する。
それゆえ、わたしはなお主の御名に頼る。
恐れに王冠を渡さない。