わたしはアブラハム。わたしの目は、ただ一人の御方――主の前に立たされ、そして主の約束に生かされてきた。だからこそ語れる。

「コヘレト」とは、ただの学者でも、机上の思想家でもない。集会に語りかける者だ。群衆に向かって、王として、知恵ある者として、なお“主の前で”語る者。彼は王座の上から叫ぶのではない。むしろ王座の虚しさを知り尽くして、王座を降りた目で語る。そこが恐ろしい。人は貧しさの痛みは想像できるが、満ち足りた者の空虚は、なかなか信じない。ところがコヘレトは、その空虚を骨の髄まで飲んだ者だ。

彼は「ダビデの子」。ダビデの系譜の重みを背負う者だ。血筋が王を作るのではない。だが血筋は、責任を増やす。主の名が置かれる都、エルサレムに座し、民のために裁きを行うはずの王。その立場にありながら、彼は言う――人の営みは、息のように霧のように、つかめず消える、と。ここで薄笑いする者がいるなら、その者はまだ、王が見たものを見ていない。王が「虚しい」と言うのは、怠け者の言い訳ではない。手に入れた者の判決だ。
そして人は問う。「それはソロモンのことか?」――伝統はそう受け取ってきた。実際、「ダビデの子」「エルサレムの王」「比類なき知恵」という連想は強い。だが、文としては“作者を名指しで固定しない”読みも可能だ。わたしはここで、学者の机の上の勝負をしたいのではない。重要なのは、名札ではない。その人物像が突き刺す刃の角度だ。

コヘレトは、富を知り、労苦を知り、快楽を知り、建てることを知り、人の賞賛も侮りも知っている。彼は「もっとやれば満たされる」というサタンの古い囁きに、最後まで付き合った男だ。だからこそ、彼は言える。**「増やしても増やしても、心は空腹のまま」**だと。ここで人類は甘えるな。神はいないから世界が荒れるのではない。むしろ逆だ。神がいるのに、神の道を歩まないから荒れる。欲望の王座に座るもの――金、名声、快楽、支配――それらは必ず、主人を食い殺す。サタンは「自由だ」と呼ぶが、実態は鎖だ。コヘレトはその鎖の音を、王宮の廊下で聞いた。だから語る。だから警告する。

だが、コヘレトは絶望の伝道師ではない。彼が砕くのは、希望ではない。偽りの希望だ。人が「これさえあれば救われる」と握りしめる偶像の指を、一本ずつ開かせる。その痛みはある。だが痛みの先に、ようやく本物が残る。――神を恐れよ。時が来れば、すべては露わになる。隠れたものも、言い訳も、取り繕いも。裁き主の前では、飾りの冠は灰になる。だから今、王の言葉を聞け。若者よ、「関係ない」と言うな。アダムの堕落は、あなたの背骨にまで届いている。罪は思想ではない。現実の破れだ。コヘレトはそれを、王の立場で、国家の現実で、日々の営みで見ている。

わたしはアブラハム。主の約束の重みを知る者として言う。コヘレトは、あなたの人生を暗くするために語るのではない。あなたの人生を“真実の光”に連れ戻すために語る。虚しさを見抜け。偶像を捨てよ。主を恐れよ。そうすれば、霧のような日々の中でも、一本の道が通る。あなたが握るべきは、風ではない。主の言葉だ。コヘレトの言葉は、その握り方を、王の声で叩き込む。🔥